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2018年4月 1日 (日)

飛鳥寺…⑦

先ほど実家から帰りました。(昨日夕方6時記述) 

開幕したての野球観戦が終わらなくて。 

テレビ見ながら食べ続けで、 

お腹すきません。あは

    *

76飛鳥寺は開門は9時からということで

周りをうろうろしていたら

「時間前でもいいですよ。」と声を掛けられた。

77


81誰もいないお堂に入ると、

初めての連れは

びっくりしたようだった。

(私は3度目)

変わらず、入ったすぐのところに

存在感のある仏様が座っている。

78飛鳥大仏だ。

私も好きだが、

今は亡き高校の仲間がとても好きだった。

82説明をしてくださる柔和な和尚さん(?)

「この大仏は最初からずっとここに座っている」、と

話してくれた。

周りがどんなに変わっても

この大仏だけはずっとここに座っているという。

そして、「写真撮ってもいいです。フラッシュもいいです。」とのこと。

なぜかというと、

このお堂もやがて修理が必要になります。

(あれ、何か寄付を、というのかな。いいですよ。などと思う。話は続き、)

その時のために

たくさんの人に飛鳥大仏のファンになって欲しいのです。

(まあ、すみません、飛んだ勘違いを・・・)

ですから、

たくさん写真を撮ってみんなに広めてください。」ということでした。

「フラッシュもいいです。

何回も雷に打たれていますから、

フラッシュごときに負けません。」

何とも潔い言葉よ。

飛鳥寺は

都が移るときに奈良に移り、元興寺となったが、その時も大仏はここに残ったという。

飛鳥大仏

飛鳥寺は588年に百済から仏舎利(遺骨)が献じられたことにより,

蘇我馬子が寺院建立を発願し、推古4(596)年に創建された日本最初の本格的な寺院。

(大仏の前にその仏舎利がお供え(?)してありました。)

868580創建時の飛鳥寺は,塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした大きな伽藍配置だった。

(写真は西門跡から今の飛鳥寺を見る。)

寺域は東西約200m,南北約300mあったという。

    *

飛鳥大仏は鞍作鳥(くらつくりのとり)が制作したと言われる。

 

百済(あるいは中国説も)から多くの技術者が呼ばれ,瓦の製作をはじめ,仏堂や塔の建設に関わった。 

瓦を製作した集団は,この後豊浦寺や斑鳩寺の造営にも関わっていったという。 

さらに,これらの技術を身につけた人たちやその弟子たちが全国に広がり,各地の寺院造営に関わるようになる。 

鞍作姓が示すように馬具を造る工人集団の首長であったと思われるが, 

蘇我氏と結びついて主に仏教関係で活躍し,その技術を生かして仏像制作も行ったと考えられる。 

そういう状況の中で、飛鳥大仏はつくられた。丈六(約4.85m)仏。 

605年に造り始め,606年に完成。 

8788法隆寺金堂釈迦三尊像も同じ鞍作鳥の作。 

飛鳥寺は法興寺・元興寺ともよばれ、現在は安居院(あんごいん)と呼ばれている。 

平城遷都に伴い奈良の地に新たに元興寺が建立されて以後は、本元興寺と呼ばれた。 

このとき,飛鳥寺に使われていた建築材も運ばれ再利用された。 

瓦もそのまま使われ,現在に至っている。(三年前知らずに元興寺に行った。) 

しかし,大仏は本元興寺と名を変えた飛鳥寺に残った。 

887年と1196年に落雷のための火災に遭い、本堂はじめほとんどの伽藍が焼失し、荒れ果てていたが、江戸時代1828年に安居院が建てられ,この大仏を安置している。 

本尊の銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時、飛鳥時代の作で日本最古の仏像。

「飛鳥大仏」の通称で親しまれています。

法隆寺金堂の国宝釈迦三尊像とよく似ている。

だって、同じ作者によるものだから…ね。

8384寺の西側には蘇我入鹿の首塚と呼ばれる五輪塔が、甘樫の丘を背に、残っている。

8990バスの時間まで

飛鳥坐神社あすかにいますじんじゃ)」へ行く。

階段がありましたが、

ちゃんと上まで登っておまいりしてきました、が、

バスの時間が気になって写真を忘れました。

次は石舞台⑧へ続く)

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