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2017年4月 3日 (月)

おかげ横丁から勝浦の宿まで…③

おはらい町を行きます。

以前の時は奥まで行かず、入り口近くで「伊勢うどん」を食べました。

22「伊勢神宮の鳥居前町として栄えたおはらい町は、江戸時代には参宮客が年間200 - 400万人も押し寄せた庶民の憧れの地であった。

当時、日本全国から参宮客を集めた御師と呼ばれる人々がこの通りに館を連ね、客人をお祓いや神楽でもてなしたことから、いつしか「おはらい町」と呼ばれるようになった」という。

23「その後、1970年代後半には観光客はバスや自動車で宇治橋前まで乗り付け、参拝を終えるとおはらい町へ立ち寄らずに次なる目的地の鳥羽・奥志摩方面へ行く者が増加した」という。

(確かに我々もそうだった、志摩のホテルに向かったのだった。)

それで、伊勢神宮の参拝客が500万人だったのに、おはらい町を訪れた観光客は20万人にまで落ち込んでいたという。

24「伊勢らしい建物」をなくしたおはらい町は、観光の魅力を失っていたということらしい。

この状況を憂慮し立ち上がったのが「赤福」だった。赤福は有志を募り1979年(昭和54年)に「内宮門前町再開発委員会」を結成、赤福社長の「日本的なこころのふるさとが求められている。」という考えに基づいて伊勢の伝統的な町並みの再生が始まったという。

25これを受け伊勢市は1989年(平成元年)に「伊勢市まちなみ保全条例」を制定、「伊勢市まちなみ保全事業基金」が創設された。この基金は伝統様式を取り入れた修景の際に融資するというもので、補助金を拠出するものではなかったが、地域の人々の熱い思いから、わずか10年で江戸時代の町並みがよみがえったという

三重県や伊勢市の力もあり、電線地中化と路面の石畳化を実施し、町並みが整い始めた1990年代から「おはらい町」の名を前面に押し出すようになった。

更に赤福は1993年(平成5年)の式年遷宮に合わせて「おかげ横丁」を開業させた。おかげ横丁と、生まれ変わったおはらい町は、2002年(平成14年)には入込客数が300万人を突破し、お蔭参りの頃の賑わいを回復した。」(ウィキペディアより)

26おかげさまで

よーくわかりました。

平日なのに、かなりの人ごみです。

まあ、春休みでもありますから…

おかげ横丁の奥の「豚捨」でメンチとコロッケを買いました。

27創業明治42年の牛肉専門店・豚捨(ぶたすて)のおかげ横丁の支店です。

揚げたてで美味しかったです。各自一個ずつ。

そして、バスの待つ内宮横の駐車場に戻ってきました。

28ここから一路勝浦に行きます。

伊勢自動車道から、紀勢道から熊野尾鷲道。

29


長いトンネルがいっぱいあった。

でもこれで時間が短くなっているのだ。

紀伊勝浦から船で、ホテル浦島

港には灯りがともっていた。6時45分到着

食事は7時半 マグロの解体ショーもやっていた。

美味しかった。

3132(お風呂の写真はHPより、写真は禁止なので。)

ここのお風呂は洞窟風呂が有名。

スケールも大きく素晴らしかった。

夜「玄武洞」(写真左)に入った。

明日の朝に一番有名な「忘帰洞(右)」にも入ろう。

「この土地は海底が隆起してできた岬で、於泥岩層の破砕帯が熊野灘の荒い風波に浸食された間口25メートル・奥行50メートル・高さ15メートルの天然洞窟。
その洞窟の中に自然に温泉が湧出して熱い湯溜りとなり、古くから沐浴に賞用されていたようです。
「熊野詣」の華やかだった平安末期には、熊野三山に参詣した貴族がこの温泉で旅の疲れを癒したと伝えられ南北朝の頃には北朝方の将石堂義慶が軍船を率いて、立籠もったことから、将石洞とも呼ばれていました。」

(なるほど、歴史は古い。)

「忘帰洞の名は、旅館営業が始められた大正末期、紀州藩の徳川頼綸公が来遊されて『帰るのを忘れさせるほど心地よい』と誉めて名付けられた。」という。

そうか、掘ったのではなく、自然にできたのか。(④へ続く)
 

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