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2014年9月 2日 (火)

『さようなら、オレンジ』 岩城けい

久しぶりの青空。

うれっしぃぃ。

そんな気分で早起きしてしまった。

で、やったことと言えば、ブログを・・・

洗濯しろ、布団を干せ、と私は私に言う。

    *    *

さようなら オレンジ』 岩城けい

「異郷で言葉が伝わること―
それは生きる術を獲得すること。
人間としての尊厳を取り戻すこと。」

    *

「人種的・言語的な差別をうける異郷の地で、巡り合った友情と絆。女性たちが支えあいながら、やがて自分の足でたくましく各々の道へと踏みだしていく。」という話である。

    *

そういう物語の底流では、母語で書くことと、母語以外で書くということとはどういうことか、がひそかに問われていく。

つまり、表面的なテーマ・物語と、その一方に書簡・メールで違った視点が進行していく、という構成になっている。

淡々とした文の中に、それぞれがどう生きていくか、自分のアイデンティティを見つけていくという、ダイナミックな結果で終わる。

アフリカから命からがら避難してきた、いわゆる難民のサリマ。

オーストラリアの田舎町の英語教室で出会う。
直毛で剛毛だから、ハリネズミとサリマに心中であだ名される日本人女性も子連れで参加している。

それぞれの立場はかなり異なっているが、やがて両者は実際にも接点を得る。かかわりあっていく。

表向き交差しなかった二人が、第二語としての英語を学ぶ中で、同じ時間を過ごし、こころを通わせていく。

今与えられた日常の中で、英語を学ぶ中で自分の祖国をしっかりと受け止めて、必死に前を向いて生きるサリマ。

その間に挟まれる静かな口調のハリネズミの恩師宛ての手紙。

この二つは活字書体を変えて記述されていて、

気のせいか、手紙は文字が薄く、印象として弱い。サリマの記述が生きざまのせいか強く残る。

     *

二人に共通する壁は「読み書きができないと、不便どころか人間としての尊厳を奪われる。」(P35)というこの“大きな島”での言語の事情だ。

これは作者が実際に経験し、言いたいことと思われる。

その土地の言語、英語を学ぼうとする場合、自分の母語がより強く認識されるようだ。

     *

「今日も世界のどこかで、小さく弱い言語のどれかが消滅しています。英語がこれほどまでに権力をもった現状において、この巨大な言葉の怪物のまえに、国力も経済力も持たない言語はひれ伏します。」という文は納得できる。

     *

「しかしながら、二番目の言葉として習得される言語は必ず母語をひきずります。私たちが自分の母語が一番美しい言葉だと信じきることができるのは、その表現がその国の文化や土壌から抽出されるからです。第一言語への絶対の信頼なしに、二番目の言葉を養うことは出来ません。」(P77)ともある。

     *

生まれてから最初に知る母語。人の奥深いところでそれは生きている。
「祖国からたったひとつだけ持ち出すことを許されたもの、私の生きる糧を絞り出すことを許されたもの」である母語

最後にハリネズミが、英語では真の話は書けないと自覚し、、先生に手紙を書く。

「私は犬と同じです。忠誠という首輪を嵌め、つながれた鎖は永遠に祖国という主人から切はなされることはありません。」(p164)

何を糧に生きるか、という問いと表裏するように、外国語の習得で何を得るのか、ということで、書くことに対する自分の思いも書かれている。

異なる文化、つまりその礎である異なる言語と向かい合ったまさに経験者の作品といえよう。

生まれた祖国の言葉が母語なら、彼女たちの子供は既に英語がネイティブになるのだろうか。

サリマの生んだ二人の子供は既にサリマよりも英語の読み書きが出来る。

状況・程度は違えど、異国で暮らすのには言語能力が生き方にも影響を与える。それに必死に立ち向かうことでサリマは生きていく。

夫に埋め込まれた「女性蔑視」も自分で考えて乗り越え、自分らしさを得ていく。

彼女はこの地で生活する力をつけ、生きていくのだ。力強さを感じる。

    *

祖国のオレンジ色の夕日を懐かしく思うのではなく、この地の夕日に希望を持つ。

一方ハリネズミも亡くした娘の遺灰をオレンジ色の海に蒔き、この地の海が自分の大事な海として、これからを生きて行こうと思う。

英語で文章を小説を書くよう勧められていたハリネズミは最後にはっきりとわかる。

「おとぎ話」ではない、正直に自分のこころを書くのは「日本語」でしかできないことを。

そして書き上げるのは「サリマの物語」

著者はオーストラリア在住の日本人女性。実体験が含まれているに違いない。

外国にいるからこその、祖国、日本、日本語なのだ。

     *

英語で小説を書こうとしている日本人の女性(大学の教員の妻として異国で暮らし、高い学歴を持ちながらも、それでも自分としては、英語を自由に操ることができない、と思っている)が恩師へ宛てた手紙と彼女の書いた小説とが交互に語られる、という「仕掛け」ということになる。

 

かなりの程度差があるけれど、同じ英語の教室でであったのだ。

母語と第二言語

難民、移住者、異端児 さまざまな差別、

自分のことを話すにはその社会での言葉が必要なのはもちろんである。

    *

やがて心を開いていく二人。

ハリネズミの夫の言葉、「ともだちなんだろう?」

「差別がないところなんてない。世の中はもともと不公平にできている」とハリネズミ、
英語教師のロスリンは言う。
「でも、それを変えていくことはできるし、たったひとりでもそのように願い行動することは可能だ。」

それは彼女がこの地のマジョリティであるから、いえるのだ、と思ってしまう。

    *

20年間オーストラリアで過ごしている作者の
絞り出された結論とその結果だろうか。

    *

はっきり見える部分と、その下に深く積もって漂う言葉への思い。

    *

長っつ!

内容(「BOOK」データベースより)

オーストラリアの田舎町に流れてきたアフリカ難民サリマは、夫に逃げられ、精肉作業場で働きつつ二人の息子を育てている。母語の読み書きすらままならない彼女は、職業訓練学校で英語を学びはじめる。そこには、自分の夢をなかばあきらめ夫について渡豪した日本人女性「ハリネズミ」との出会いが待っていた。第29回太宰治賞受賞作。 53

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