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2012年8月30日 (木)

山辺地区へ…②

6028お昼は豆腐料理

息子1が午後1時の電車に乗って帰った、

そのあと、

「山辺」という,名前もいかにも、という地域を回ってみることに。

60306034旧山辺学校校舎

「障子学校」、我等が村の学び舎

モデルは開智学校
  旧山辺学校は明治6(1873)年兎川(とせん)学校として発足し、兎川寺(とせんじ)の本堂を借りて開校しましたが、明治18(1885)年、当時の里山辺・入山辺の二村により新校舎が建築されました。Img_047_01校舎の大工棟梁は地元里山辺上金井出身の佐々木喜重(きじゅう)でした。佐々木は明治9(1876)年の開智学校の建設に携わっており、この校舎も開智学校をモデルとして建設されました。新築費用は里山辺、入山辺両村が力を合わせ、村費と寄附金ですべてがまかなわれました。

兎川学校は明治19(1886)年に山辺学校、明治22(1889)年に山辺尋常(じんじょう)小学校となり、昭和3(1828)年までこの校舎が利用されました。以後は里山辺村役場として使用されました。

昭和56年から保存復元工事がおこなわれ、現在は山辺学校歴史民俗資料館として使用されています。
  校舎は木造二階建、屋根桟瓦葺(さんがわらぶき)入母屋(いりもや)造で、屋根の中央に八角形平面の塔屋が載っています。一階正面中央には入母屋造の玄関(車寄せ)がつけられています。…

  モデルとなった開智学校と比較すると、山辺学校は全体的に簡素な作りとなっています。開智学校は窓にガラスを用いていたのに対し、山辺学校は障子を用いていたことから、開智学校は「ギヤマン学校」、山辺学校は「障子学校」とよばれていたといわれます。
  明治開化期の学校建築の中でも、伝統的な日本建築の手法と洋風の手法を巧みに融合させて、斬新な建築表現を生み出した点で優れています。(HPより)

60366039続いて、小学校が最初にできたという、兎川寺(とせんじ)。旧学校の前にあります。

寺伝によれば今から約1300年前の飛鳥時代、聖徳太子により創建されたと伝わる。中世には天台宗、真言宗合わせて24坊からなる大伽藍があり隆盛を誇ったという。

いろいろ読んでいくと、長い時代に地方の一つの寺にもいろいろなことがあったのだと、今更ながら、興味深かった。

いまは静かに近隣の人に愛されているのだとも感じた。

604560486052それから「須々岐水神社」(すすきがわじんじゃ)へ。

薄町にあるらしい。

御柱もあるという。

60566060
もう一つ、針塚古墳

川の近く、水田とブドウ園畑の真ん中にあった。

市内唯一残った積石塚(つみいしづか)古墳という。

大昔からの人の営みがここにあったのだと、

里山辺という素敵な地名を思った。

里山辺地区は、美ヶ原山塊から流れ出る薄川(すすきがわ)が形成した扇状地といいます。なるほどねぇ。

それから

近くのファーマーズガーデン あんど 山辺ワイナリーへ。

我々はたくさんのワインを試飲し、

夫はたくさんの桃を買い、ご機嫌どうし

運転手は交代した。(③へ続く

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